大澤慶(よし)己(み)先生プロフィール


2006年1月 講道館十段に昇段                                 柔道家人名辞典より
生年月日:1926年(大正15年)
出身地:千葉県佐倉市
    昭和18年3月(第44回)佐倉中学校卒業                  
大学名:昭和22年早稲田大学卒
卒業後の所属先:講道館研修員(1953年〜)、早稲田大学教授
柔道界における功績:
 1953年から講道館研修員。講道館での指導に携わる。
 早稲田大学教授として教鞭を執る傍ら、全柔連国際試合強化委員、
全柔連女子柔道選手強化委員長などを歴任、柔道界の発展に尽く
した。少年向けの名著「柔道入門」の著者でもある。
組み手:左組
得意技:送足払、釣込腰、体落
身長:167cm・体重:67kg
ライバル:木村政彦、吉松義彦、松本安市、醍醐敏郎評論:1926年千葉県
佐倉市に生れる。旧制佐倉中学から早稲田大学と進み、柔道部主将。
168cm、67kgの小兵でありながら多彩な技と絶妙な体捌きで「今様牛若丸」
の異名をとった。得意の送足払、釣込腰、体落で大型選手を苦しめ、醍醐敏郎、松本安市といった全日本王者相手に
も1勝1敗の成績を残しており、木村政彦も「苦手な選手」と明言するほどであった。
戦時下、占領下にその選手時代を過ごしたために試合自体に恵まれなかったが、1949(昭和24)年から再開された
全日本選手権に計6回出場。1952(昭和27)年には並み居る大型選手を押し退け準々決勝まで進出した。

その他特記事項:
◇「両方持っても強い」
我々は、競技柔道における小兵の柔道というと「切る」「組際に掛ける」ということで勝負するというイメージを当然のよう
に持つ。たとえば古賀稔彦が全日本選手権で決勝に進出した、ああいう柔道だ。ところが大澤は「二本持つ」「相手も
二本持っている」状態で大兵の選手を投げ続けたという。「ただ、てめえの体が小さいだけですから。だから、僕は体の
さばきが人よりも少しよかったので、何とか持ったということでしょう。ガンと引きつけて、足のほうはずっと動いているわ
けですから。だから、まともに食わない」まさに講道館柔道の妙味である。
◇「私は足腰が強かった」
何しろ自宅から佐倉中へ通うのに3時間かかった。往復6時間ですよ。家を自転車で出て、
印旛沼で渡し船に乗って、また自転車に乗って、最後は電車に乗って行った。毎日その繰り返し。1年中鍛えていたと
いうことだね。佐倉があの頃は一番いい学校だったんだ。5年間通ったので、足腰も強くなるよ。それに今と違って砂利
道で、楽に漕げるところじゃないから鍛えられた。そんなとこが柔道にも出たんじゃないかな。それに反射神経もよかった。
佐倉の土屋新次先生は国士館出の内股の名手だったけど、稽古で俺がひょいと透かすの。けっこう決まったので、若い
頃からそういう才能があった。それに私らの頃は柔道は無差別だから小さいからだめなんて言っていられなかった。
(近代柔道3月号新十段に聞くインタビューより)