生い立ち
今から百年前の1903年12月17日、アメリカのノースカロライナ州キティーホークで、オービル・ライト、ウィルバー・ライト兄弟がエンジン付き飛行機による人類初の動力飛行に成功しました。ライト兄弟のように、誰もが一度は青く広がる空を見上げて、鳥のように自由に飛んでみたいと夢に描いたことがあります。その憧れを強く持ち続けて努力を積み重ね、大空から許された者だけがパイロットになることができます。飯沼金太郎もその一人でした。
飯沼金太郎は、千葉県印旛郡佐倉町内中尾余町二四番地の父飯沼徳次郎、母くらの長男として明治30(1897)年7月22日に生まれました。ちなみに徳次郎の旧姓は「大沢」といい、「飯沼」は母方の姓で、くらの実家は甲子正宗で有名な印旛郡酒々井町馬橋の造り酒屋、現在の飯沼本家です。徳次郎は佐倉連隊に所属する軍人(最終軍歴は歩兵中尉)で、信心深く優しいくらとの間には、金太郎を筆頭として、とよ、二郎、三郎、四郎、五郎の一女五男に恵まれました。
金太郎が生まれ育った時代というのは、正に航空時代の幕開けと呼ぶにふさわしい時期でした。金太郎6歳の時にライト兄弟の初飛行があり、アンリ・ファルマン(モーリス・ファルマンの兄)の一キロ周回飛行(1908年)、ルイ・プレリオのドーバー海峡横断飛行(1909)
と続き、遅れをとっていたわが国でも明治43(1910)年12月19日、東京代々木練兵場(現代々木公園)において徳川好敏、日野熊蔵両大尉により、日本人初の動力飛行に成功しています。
金太郎は佐倉高等小学校から県立佐倉中学校(現佐倉高校)へと進学しますが、この頃より模型飛行機づくりに熱中するようになります。そして、友人と模型飛行機の研究をしているうちに、「やはり自分で飛ばなきゃだめだ」という想いが次第に押さえきれなくなってしまい、とうとう両親に自分の気持ちを打ち明けます。「飛行家になりたい!」と。
日本でも飛行機が飛び始めたとはいえ、墜落などの事故も多く、まだまだ飛行機が危険な乗り物であると考えられていた時代のことです。金太郎が陸軍士官学校へ行くことを期待していた父徳次郎は反対でしたが、一度言い出したら後へ引かない性格をよく知っている母くらが「そんなにやりたいなら、やったらよかろう」と応援してくれました。大正4(1915)年3月に佐倉中学校を卒業すると、金太郎は父の許しを得てパイロットヘの第一歩を踏み出すことになりました。
大空へのキップ
金太郎がパイロットになるために初めに向かったところは、埼玉県の所沢飛行場でした。所沢飛行場では、陸・海軍合同で組織した臨時軍用気球研究会が主体となって、気球や飛行機の製作・研究とともにパイロットの養成が行われていて、金太郎は首尾よく同研究会に所属する澤田秀中尉の書生となることができたのです。書生としての金太郎の仕事は、澤田中尉が設計した飛行機の製図を手伝ったり、研究会の格納庫に入ってエンジンや機体を整備する職工の補助をすることでしたが、仕事を通じて飛行機に関する知識を身につけていきました。このような仕事の合間に、澤田中尉の操縦で、はじめて飛行機に乗せてもらうことができたことも、金太郎にとって忘れられない出来事となりました。
しかし、このまま書生を続けていてもパイロットになることができないため、夜学に通うなどして勉強をし、帝国飛行協会(日本航空協会の前身)が民間飛行家の養成を目的として募集していた、第三期飛行機操縦練習生に応募しました。身体検査、学科試験(物理・化学・数学・語学)、口頭試験を行った結果、後藤勇吉(宮崎県)、田中六郎(長野県)と金太郎の三名が合格、大正6(1917)年12月11日より、臨時軍用気球研究会の伊庭三郎中尉が主任となって、所沢飛行場で約四ケ月間の操縦教育を受けることになりました。練習用に使用した飛行機はモーリス・ファルマン式(通称モ式)複葉機で、この時の様子を金太郎は次のように回想しています。
モ式練習機の操縦席は近接してダブル・コントロールになっている。後席の教官は何時でも自由に後部から練習生の身体に触れることが出来るのである。初期の同乗飛行訓練の時などあまり下手なハンドル操作をすると教官は怒ってスイッチを切り、後ろから頭か背をたたき、「ハンドルをはなせ、バカッ、舵が大きすぎるぞ」などとどなられることがあるが、地上で次番を待機しているわれわれにもそれが聞こえて、おもしろくもあり、またおかしかったものである。
操縦訓練も順調に進み、卒業試験である所沢・大田原(栃木県)間長距離飛行も無事終了して、第三期練習生三名は、大正7(1918)年5月14日に山田隆一中将(臨時軍用気球研究会会長)から飛行機操縦卒業証書を授与されました。郷里の佐倉を出てから三年間の努力が実り、金太郎は念願のパイロットのライセンスを取得することができたのです。
協会の研修生となる
第三期飛行機操縦練習を卒業した後、「お前は製作の方に興味があるらしい」と見込まれて、金太郎は臨時軍用気球研究会の雇員となって、機体や発動機の整備をすることになりました。格納庫内には練習生となる前からの知り合いも多く、金太郎にとっても居心地の好い職場でしたが、パイロットになるために苦労して勉強し、ようやくそのライセンスを取得したのだから飛行機を飛ばしたくて仕方がない。金太郎は一計を案じて、昼休み時間中に事務所の裏手にある帝国飛行協会の格納庫に飛び込み、やにわにモ式を引っぱり出して飛行場の周辺を飛び回るのが日課となってしまいました。
夢中になって飛行機を操縦し、楽しくて仕方がないものだから昼休み時間を超過してしまうことが多くなる。最初は大目に見ていた工場長からもしばしば注意を受けたりしていたが、一向に直らない。ある日研究会の事務室に呼び出されて、徳川少佐に「今までどこにおった」 と問い詰められて、返答に窮した金太郎は正直に「空におりました」と答えたところ、徳川少佐はニヤっと笑って「そんなに飛びたいか」といわれるだけで許してくれました。そして、金太郎は大正7年11月16日に帝国飛行協会の研究生として採用されることになり、晴れて協会のモ式を飛ばすことができるようになりました。
研究生となってからは、飛行機の製作に取り組んだり、赤く塗られた協会のモ式(所沢の人々から赤トンボとも呼ばれていた)に乗って、日々飛行練習を繰り返していました。金太郎が製作した飛行機として、モーリス・ファルマン式練習機と尾崎式第二曽我号があったことが知られています。特に第二曽我号は、先輩の後藤正雄(第二期操縦練習生)技師と共同で製作した飛行機で、途中後藤技師が協会を辞めてしまったため、以後、金太郎が主任となって完成まで漕ぎ着けることができました。
研究生時代の大きな三つの出来事として、東京遷都50年祝賀飛行、尾島飛行場への出張、そして東京大阪間無着陸周回飛行大会への参加を揚げることができます。
東京遷都50年祝賀飛行は、大正8(1919)年5月10日に東京上野を会場として開催されたもので、金太郎は同期生の田中六郎を同乗させて所沢から協会のモ式を飛ばして参加し、低空飛行などで観衆を驚かせました。この祝賀飛行に、千葉県津田沼(習志野市)の伊藤飛行機研究所から山縣豊太郎というパイロットが参加しますが、後にこの山縣が金太郎のライバルとなります。
大正8年9月から翌年の4月まで、金太郎は群馬県の尾島飛行場に出張することになります。この尾島飛行場は中島知久平(中島飛行機製作所の創業者)が開設した飛行場で、帝国飛行協会が手狭になった所沢飛行場の代わりとしてその一部を使用するために、同地に金太郎を派遣したのです。金太郎は格納庫建設等の整備をするかたわら、尾島飛行場内にあった飛行学校の助教をしたり、中島製の飛行機で飛行練習を積み重ねるなど、操縦技術に一層の磨きをかけていきました。なお、この時、中島飛行機製作所の格納庫内では、金太郎の愛機となる中島式七型「在米同胞号」という複葉機の製作が着々と進められていました。そして、研究生時代のハイライトといえる東京大阪間無着陸周回飛行大会への参加となりますが、これにより金太郎は生死の境をさまようことになります。
飛行大会の行方
東京大阪間無着陸周回飛行大会は、大正9(1920)年4月21日、東京深川の洲崎埋立地を会場として開催されました。帝国飛行協会主催のこの大会は、洲崎埋立地を起点、大阪の城東練兵場を折り返し点として、いかに早く無着陸で往復飛行することができるかを競技するもので、一等には一万円の懸賞金が用意されていました。無着陸で東京大阪間を往復すること自体、当時の競技会としては破天荒な試みであったので、会場には数万の観衆が詰めかけていました。
参加を申し出たのは小栗飛行学校の小栗常太郎、伊藤飛行機研究所の山縣豊太郎、帝国飛行協会所属の飯沼金太郎の三人で、いわゆる「民間飛行界の三太郎」による争奪戦として注目を集めていました。ところが、小栗が棄権してしまったため、大会当日は山縣と金太郎の一騎打ちとなりました。
山縣が操縦する飛行機は、同研究所の稲垣知足技師により設計されたゴルハム150馬力搭載の伊藤式「恵美号」14型、金太郎は中島飛行機製作所で製作されたスターテバント210馬力搭載の中島式七型「在米同胞号」で記録に挑むことになりました。
空模様が心配されていましたが大会は決行となり、午前10時8分、山縣の「恵美号」は燃料を満載した重い機体をようやく浮かせて、品川上空にその姿を消していきました。続いて金太郎が「在米同胞号」に乗り込んで出発しようとしましたが、出発直前になってエンジンの調子がおかしくなりました。原因不明のまま中島の整備士たちが必死になって作業をした結果、発電機系統に故障があることを発見して修理し、山縣から約二時間半も遅れて、午後0時41分に爆音を轟かせて洲崎を離陸しました。
洲崎を出発した金太郎は、全速力で西へ西へと向かいましたが、自分の気持ちとは裏腹に、眼下に広がる風景がゆったりと流れていく様を見て、無性にもどかしく感じました。今までにない長距離飛行への不安、主催者側に所属している重圧に加えて、出発が遅れたために夜間飛行まで覚悟しなくてはならなかったのです。この焦りが、金太郎に大きな過ちを犯させることになります。
厚木上空から現れ始めた雲は次第に密度を増していき、しばらく進むと二つの大きな入道雲が金太郎の行く手をはばみました。そして、一分一秒でも早く大阪へ向かおうとする気持ちが、金太郎の判断を誤らせました。「『えゝ、やっちまえ』敢然私はその中に突き込んで行った。…ところがその雲は案外濃密なものだった。」
入道雲の中に入るやいなや、機体が激しく動揺し、左に50メートルも吸い込まれたかと思うと、たちまち右方に100メートルも跳ね返されて、散々翻弄されて雲から吐き出された瞬間、眼前には丹沢山系の高山がそびえていました。必死の回避操作も空しく、金太郎の「在米同胞号」は山に激突してしまいます。「左旋回をしたようでもある。それがバーチカルであったような気がする。とにかく直ぐ次の瞬間、雲に吸い込まれたと思う間もなく、激しい衝動を感じたと同時に意識は絶えてしまった。」
失意、それから
丹沢に遭難した金太郎は、両大腿部上部骨折、右頭頂部及び左下顎部裂傷の重傷を負いながらも奇跡的に生還しました。しかし、10ケ月に及ぶ入院生活を余儀なくされ、切断を免れた左足も生涯曲げることはできませんでした。パイロット生命を断たれた金太郎が、帝国飛行協会に静かに辞表を提出したのは大正10(1921)年2月のことでした。
その後の金太郎は、体の静養に努めるとともに、中島知久平の援助を受けて画家を志すようになります。「航空黎明期のパイロット飯沼金太郎が絵描きになった」という噂が流れ、もう航空界には復帰することができないだろうと考えられていました。しかし、金太郎は飛行家としてのもう一つの花を咲かせることに成功します。昭和8(1933)年4月に亜細亜航空学校、亜細亜航空機関学校を設立して、後進の指導育成に活躍したのです。この学校経営に乗り出した経緯につきましては、『さくらおぐるま』第32号に掲載されております拙稿「ひとすじのヒコーキ雲」をご一読いただければ幸いです。 (こぐれ たつお)
*この原稿は、2002年3月29日佐倉市教育委員会発行「風媒花」第15号に掲載されたものです。